高校不登校

「不登校」という言葉を重く感じるのはなぜ?

「不登校」という言葉について感じることを書いていきます。

 

「不登校」という言葉、重く感じるのは私だけ?

ブログで「不登校」のことを振り返ったり、同じテーマで書かれている方々のブログ等を拝見したり、「不登校」の文字を目にするたびに思うこと。

何でこのたった3文字の「不登校」って言葉が、こんなに重いのだろう?

何とも重たい空気を醸し出していると思うのは私だけでしょうか?

ちなみに文部科学省による「不登校」の定義は以下の通りです。

何らかの心理的、情緒的要因・身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの

出典:文部科学省 不登校の現状に関する認識

 

「不登校」は本来あるべき姿(登校)ではないという印象だから?!

言葉の与えるイメージって大きいですよね。言葉には魂が宿る、「言霊」なんて言ったりします。

なぜ、この「不登校」という言葉に対して、こんな気持ちになるのだろうと考えてみました。

「不登校」

登校」という名詞に、打消しの「」という語がついている

登校」が主体。ベース。

登校」していない状態を表している。

登校」がベースの言葉ですね。そのため、不登校」というと本来あるべき形ではない(なおすべき)状態といった印象を受けるのかなと思いました。(あくまで私がそう感じるというだけなのですが…)

小中学校は義務教育で、高校は義務ではないものの大多数の人(97%)が進学しています。 (参考:文部科学省 高等学校教育

学校教育を受けるにあたって学生は学校へ行く(登校する)ので、教育のためには登校が大前提で標準となり、それができない(していない)から不登校。

「そんなこと(学校行くのが基本)当たり前じゃん!」と言われてしまいそうですが、本来あるべき姿とされるものから外れてしまった状況というのは当事者になると、とても辛いものがあります。

学校教育は大切。でも…

辛い気持ちを抱えて、押しつぶされそうになったとき、「学校に行くか、行かないか」の二者択一だと言われたら、辛いです。二者択一だと言っても、片方は誰から見ても正しいと言われそうな選択肢(登校)。もう片方は負けの烙印を押されかねない選択肢(不登校)。

振り返れば短いように感じますが、当事者のときは短いようで長い学校生活。楽しくて仕方ないとき、とんとん拍子でうまくいくときもあれば、人間関係のいざこざがあったり、人には理解されがたい辛い状況があったり、人それぞれ色々な事情があると思います。

学校へ行かないことを推進したいわけではないですし、教育環境として学校が悪いと言いたいわけではありません。

学校生活は同年齢の集団の中で、規則正しいリズムで過ごし、楽しい経験も苦い経験もしながら、勉強以外にもたくさんのことを学べるチャンス。

でも、「学校で学ぶことだけが当たり前ではなくて、それ以外の選択肢をとることも当たり前にありうること」という認識になったら、学校に行けないことがこんなに息苦しくないのではないのかなと思います。(そのためには、学校以外でも勉強と有意義な実体験を積める環境が必要になりますが、そのことは一旦脇に置いておきます)

全く違う表現ってないの?

どんな言葉で表現したら良いか、考えてみましたが、なかなかピッタリな言葉は出てきません。例えば、「自宅学習」を略して、「宅学」などはどうでしょう。(予備校へ行かず、自宅で浪人生活を送る「宅浪」と似ていますね)

「自宅学習をベースとして、実体験をどこか別の場所で重ねる」というと、通信制高校のようなイメージになってしまいますが…。難しいです。

まとめ

『不登校』という言葉について、

学校教育は学校への『登校』ありきで成り立っていて、『登校』が標準」

「『不登校』は標準(当たり前)から外れたもので、正さなければならないもの」

といった印象を受けるため、私は重苦しく感じるのだと思います。

 

 

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